父の軍刀と22年ぶりに再会
昨日の雨は上がったが,午前中は畑はぬかるんでいて午前中は畑作業は難しいと判断し,午前9時,中郷のセルフスタンドに軽乗用車の燃料補給に合わせて管理機用の燃料の携行タンクを持ち込み,同タンクへの補給はスタンドの店員さんに頼んで満タンにしてもらう。
午前9時半整骨院へ出かけ顔なじみの皆さんと一緒に治療を受ける。治療仲間の皆さんとの間で話題となったのは,「おじさん」・「おばさん」との表現で,自分よりはっきり年長の先輩ならこの呼称でよいが,歳が上か下かよく分からない方への使い方。早く「おじさん」・「おばさん」と言った方が,相手よりも若いと決めつけていいのではとの結論で診察室は大笑いになる。(「私の方が若い」と小言を言う人もいるかもしれないが?)
午後1時15分 歴史資料館に出かけF館長と談笑していたら,午後1時半に会う約束の鹿児島の大学の先生が来館され,亡父の軍刀が終戦の年に錦江湾に入港してきた進駐軍の米軍海軍大佐の手に渡った経緯(第五特攻戦隊司令の少将の刀ではなく,大佐の主席参謀と中佐の水雷参謀の父の二人だけの刀なのか?)に関し,米国の教会所属の歴史研究者から送られてきた手紙に基づいての確認を受けるが,昨日までに作成を終え準備していた資料taitoru.pdfをダウンロードに基づき,父からその件は聞かされておらず経緯不明の旨を回答する。
なお,米国の研究者から送られてきた手紙には,平成4年1月31日のポーツマス市ライブラリーでのプロッサー氏から私への父の軍刀返還式での二人のアップ写真も添えられていた。また,写真撮影のため収蔵庫から搬出された歴史資料館に寄贈した父の軍刀とは22年ぶりに再会。再質問に関しメールアドレスは持ってはいるが,米国の研究者からの追加質問をメールで受けても英文のままでは答えられないので,先生には質問は大学で日本文に訳したものでないと回答はできない旨を厳にお願いし,午後4時に先生を見送り帰宅。
先週木曜日に歴史資料館経由で課せられた課題が2時間余の大学の先生との面談で済み,ようやく肩の荷が取れたので午後4時半から畑に出て,昨日の雨で叩かれ流れた畝の土を鍬を使って各畝列ごとにお越し,また花芽を持ったハクサイを抜根し穴に埋設し,新しい穴を一穴掘り上げて午後6時半に畑から上がる。
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