親子して父の命日 墓参りに
今日は奉職先に午前9時に出かけ午後5時前まで関係課とのヒアリングに従事するが,7月3日にスタートし既に9日目を迎え少々疲れも出て来たが気を引き締め関係職員と対峙する。なお,今日のヒアリングでも初耳の案件報告を受け,今日の日程終了後再聴取を行い,厳格な対応がなされている事実を確認する。
帰宅後,今日は亡き父の命日であったので男二人2ndと冷たい井戸水をポリ容器に入れお墓参りに出かける。
お墓で父の墓前に手を合わす中,昭和46年=社会人1年目の自分に対し,入院4カ月が過ぎ死期を悟った父から,「今日は,職場の上司に父のために休みをもらえないかと相談をできないか?」と言われ,勤務4カ月目の職場に電話を入れ休みを取り,病院のベッド脇に母と付き添う中,自宅の畳の上で最後を迎えたいとの父の希望を,当時済生会川内病院の内科部長を務めていた従兄に相談し,隣の従兄の車で自宅に運び,「同期の多くは,米軍の機銃掃射を艦橋で受け,また霞ケ浦の甲種飛行の教え子は特攻で若い命を落としたのに比べれば,自分は戦犯の訴追も免れ戦後長生きしすぎている」が口癖で,患部が痛いとの弱音を最後まで吐かず,自宅に帰り布団の上で最後を迎えた父の目線からも,庭先には赤のハイビスカスが咲いていたのが見えていたのではと,42年前も今日のように暑い日であったことを思い出す中,父の歳を既に越した現在の自分が,父のような明治の男の生き方ができているのかと反省する。
夕刻からは,オクラ畝に入り込み実の下の葉をもぎ取りながら収穫作業に励み,30本を超えるオクラの実を収穫して午後8時10分に畑から上がる。
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